9月 鎮魂

 あの日、私はいつものようにジムで軽く汗を流し、心地よい疲労感に浸りながらわが家に戻って来た。時計は既に夜の10時半を回っている。玄関のドアを開けるなり先に帰宅していた上の娘が待ち構えていたように飛び出してきた。
 「パパ!アメリカが大変な事になっちゃったよ!」
 瞬間、何事か、と思いながらも娘のただならぬ様子に、えもいわれぬ邪悪な出来事の発生を予感し、私は全身が総毛立つのを感じた。


 9月11日午前8時45分(米国東部現地時間)、ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センター北側タワーにアメリカン航空11便が突入。その18分後の同9時03分、今度は南側タワーにユナイテッド航空175便が突っ込んだ。ブッシュ米大統領は間髪入れず同9時20分「事件はテロである」との声明を発し、米国航空当局も国内全航空機の離陸禁止措置をとるなど迅速かつ果敢な危機管理措置を講じて行く。しかし有ろうことか、同9時45分ワシントン郊外のペンタゴン(国防総省)をめがけ狂気の第三弾目(アメリカン航空77便)が突撃を敢行した。更に同10時10分にはピッツバーグ郊外にユナイテッド航空93便が墜落。その後は、既に周知のとおり、最初の事件発生から僅か1時間半の間に地上442メートルの二本の巨大な摩天楼は周囲の建造物と六千数百名とも言われる尊い生命を巻き添えにしながら相次いで崩壊した。刻々と大惨事を報ずるニュース速報を見ながら、ふとニューヨーク駐在のT氏の安否が気になり矢も盾もたまらず電話を入れる。しかし応答は無くやがて回線は留守録に切り替わる。念のため電話の趣旨を簡潔に述べ、同氏の無事を祈りながら電話を置いた。


 さて、翌12日、当デスクが所属するジェトロ上海センターでは投資諮詢部はじめ各共同事務所がそれぞれ一斉に今回の一連のテロによる日系現地法人等への一次的影響につき電話によるヒアリング調査を実施し事態の把握に努めた。
 以下はそれら調査結果の概要。


 まず翌12日の現地報道から。中国の新聞各紙は朝刊で本件テロ事件につき写真入りで大きく報じた。しかしテレビ報道の方はやや緩慢、取扱いのテンションも日本はじめ他国メディアに比べ抑え目との印象である。一方インターネット「人民日報」中文版の取扱いは詳細にしてタイムリー。しかし、どうしたことか同日本語版の方は事件後2日間、本件テロに関する記事は一切無し。この間、江澤民主席は中国政府、人民を代表して米国大統領、国民に対し哀悼のメッセージを伝える。
 株式市場は、「IT関連及び香港株式市場の影響を受ける上海B株は短期的には影響を受けるとの予測。しかし、中国では対外的な資本取引が規制されており、中長期的には他国の株式市場ほどその影響は大きくはない」(中国証券会社情報筋)との読み。また為替レートは、人民元は実質的に米ドルにぺグしており、1ドル8.26元と事件前とほぼ変わらず。しかし、その後一方的なドル安に伴い対円レートは一時大きく下げる。
 旅客、物流関係では、事件発生直後の段階で航空、船舶とも特段の影響は出ていない模様。ただ、「事件直後、米国本土向けのみならず、グアム、サイパン、オセアニア、カナダ等への飛行が禁止されたため会社全体としての被害は甚大。上海現地では今のところ直接的な影響は出ていない」(航空筋)。なお、上海浦東空港等から航空機利用の際、安全確保のため機内持込手荷物は一人一個のみと制限されている。また「日本からの空輸部品が経過措置により24時間程度遅れている」(運輸関連筋)など現地法人操業への直接具体的な影響が懸念される。その他「本社からの指示により米国、中東への出張は当面差し止め。また北米向けの緊急貨物には影響が出る見込み」(商社筋)である。


 上海市では10月17日〜21日の間、APEC関係閣僚会合、首脳会合が相次いで開催される。今回の事件により警備はなお一層の厳戒体制となる模様。既に現段階において地方都市から上海市内に入る高速自動車道の料金所付近には完全武装の人民解放軍兵士が警備に当たる姿も認められる。なお同期間中、市内は警備上交通規制等による混乱を回避するため、学校及び各公共機関は休業となる。
 今回の米国同時多発テロ事件発生を契機に世界の政治、経済情勢はその様相を一変させてしまった感がある。今後、事態の長期化とともに中国国内企業はじめ、現地に展開する日系企業もその経営に少なからぬ影響を被るで有ろうことが見込まれる。我々は引き続きそれら動向を見守るとともに、適宜、適切な情報の収集、提供を行ってまいりたい。


 その後、T氏は無事であることが判明しひと安心。だが日系人建築家故ミノル・ヤマサキ氏が設計を手掛け、世界の金融、ビジネスの中心街に聳えるその壮麗な姿からアメリカ繁栄のシンボルと謳われた巨大な芸術作品を我々はもはや再び目にすることはできない。失われた数多くの尊い生命とともに。


 本件テロの犠牲となられた多くの人々並びにその親族、友人に対し心より哀悼の意を表する。


合掌