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11月 上海での穏やかな日々(その1)

 仕事を終え、早めの退社。時計を見るとまだ5時20分です。


 事務所の有る「太陽広場(サンプラザ)」の玄関のガラス扉を開き表に出ると、陽はとうに沈み、遥か西の空の低いあたりにほんのわずかだけ夕焼けの色を消え残して、周囲には乳白色の闇が迫っています。少し風が有るためか外気の意外な冷たさに思わず背広の胸のあたりを合わせてしまいました。すぐ目の前の仙霞路でタクシーを拾い、後部ドアを自分で開け運転手(駕駛員)に行き先を告げると左脇に鞄を抱えるようにして座席に身体を埋めました。
 上海人(サンヘニン)はよく喋る。とにかく世間話が好きです。街角で誰憚ることなく大きな声でまくし立てる朗かさは今の日本人には無いものであり、羨ましくもあり微笑ましくもあります。しかしタクシーの運転手の場合、こちらが外国人と判ると頭から寡黙を押し通す者が多いものです。それが今日の運転手はどうしたものか、こちらの素性が判った後も構わず喋りかけて来ます。


「さっきも日本人を乗せたけど、3年以上もこっちで暮らしているって言うのに、ろくな話も出来なかったね。それに引き換え、あんたの中国語は悪くない。」
 少しでも中国語を話すと、中国の人は大変喜んでくれます。しかも誉め上手。しかし頻繁にこれをやられるものだから、ああ、またかという感じになり、次第に大した感動もしなくなります。しかし、そこは、まあご愛想で「幾つぐらいの人?…男のひと?それとも女の人?」
 学生時代に中国語に縁が無く、年配になってからいきなりの赴任ではちょっときついかも…まして主婦の場合はなおさらかもしれないな…などと思っていると。
「男さ、…40歳ぐらいかね。あんたと同じぐらいだ」
 振り向いた運転手の表情は意外に若く、少し汚れていましたが制服もきちんと着用しています。
 タクシーを拾う時にはいつも自宅マンション(公寓)ご用命D社のライトブルーの車両を選ぶことにしています。上海のタクシー会社の過当競争は有名で街中どこでも雨さえ降っていなければ、1分と待たずに拾うことが出来ます。今、国有企業などの改革で中国中に一時帰休者(下崗)や失業者が溢れていますが、特に上海市付近には70万人もの失業者がいると言われています。タクシーの運転手はそういった人たちが再び職に復帰するまでのモラトリアムまたは登竜門だという話も聞いたことがあります。それにしても昨年秋以降一斉に近代化されたとは言え、まだまだ決して清潔とは言えない車両と極めて乱暴な運転手ばかりが横行する中に有って、かのD社は他社に先駆けてISO9000番の認証を受け、車も定期消毒を行(っているらし)い、制服を着用、接客マニュアルも確立されていることなどから、他社に抜きん出て(上海では)安心して乗ることが出来る数少ないタクシー会社です。


 それにしても今日はよりによって、いつもより早い時間にタクシーに乗ってしまったものだから丁度引け時の人と自転車と車の大渋滞にはまってしまいました。車は思うように前に進んでくれません。特に他の省市に引き比べ道幅の狭い上海市の渋滞は人と自転車と車が正に濁流のごとく渦を巻きながら行きつ止まりつ進んで行きます。少し行って、再び止まりかけたところで若者の運転手が待ってましたとばかりに後を振り返り、身を乗り出すようにして
「どうやって行くの?南浦大橋?それとも隧道にする?」
などと早口で聞いてきます。これはいつものこと。南浦大橋を通って行くのが1番早いし、したがって料金も安く上がるに決まっています。ナノにわざわざ三角回りとなる隧道回りまで選択肢に入れてくれます。最初の頃は、悪巧みをしているのかな、とこちらも少々構えたりしましたが、これも慣れるに従い、どうやらサービスマニュアルどおりらしいと感じるようになってきました。道順を確認するのは顧客サービスの一環と考えているのでしょう。確かに行き先だけ聞いてとんでもない遠回りされるよりは道順まで指定した方が安全かも知れません。しかし、今でも時々、明らかな悪意をもって同様の発言をする雲助がいるので、気は許せません。言葉が不十分で地理不案内な乗客は、中国語(特に上海語)特有の語気の荒さと、何となく険悪な雰囲気にまんまと巻かれ、心ならず遠回りをさせられることもあります。

「電飾で彩られる南浦大橋」(何故か本日点灯されていました。中国人も理由が分からないと言っています。)

「電飾で彩られる南浦大橋」(何故か本日点灯されていました。中国人も理由が分からないと言っています。)

「誰がつけたかShanghai Sexy Express Way」(虹橋空港から外灘へ、市の中心部をなだらかな起伏とカーブを描きながら一気に突き抜けます。

「誰がつけたかShanghai Sexy Express Way」(虹橋空港から外灘へ、市の中心部をなだらかな起伏とカーブを描きながら一気に突き抜けます。

「最短距離を行けばいいんだよ」 
 それよりも、まだ車が完全に停止していないのに後を向くのはやめてくれないかな。


 これもいつものことですが渋滞は意外にあっけなく終わります。事故でも何でも余程のことがない限り日本の様に希望を失う程に延々と続くことはまず有りません。大抵の場合、渋滞のネックは、人と自転車と車がそれぞれ進みたい方向に向って互いに譲らずに大混乱する交差点と決まっています。しかしこれも信号を何回かやり過ごせば後は信じられない程スムーズに走行出来ます。特に高架路は非常に快適です。路面の凹凸による振動をボデイ全体に忠実に伝える車両構造と比較的ロードノイズをよく拾うタイヤを装着した欧州系自動車メーカーの現地法人の手になるタクシー専用車両は、平均速度100キロを超える猛スピードで高架路を突っ走ります。日中の疲労も手伝ってか軽い睡魔に襲われて、車の揺れに心地よく身を委ね始めた頃…。


「お客さん、仕事はいつも今時分に終わるの?すっかり暗くなったねえ。日本でも同じかい?」
 重くなった瞼の片目だけを開けながら
「…同じだよ」と絞り出すように答えました。
「国には一年に何回ぐらい帰るんだい?2〜3回ぐらいは帰るんでしょ?」
「一般的にはそんなもんじゃないの、よく知らないけれど」
 少し不愉快です。
「日本までは飛行機で何時間ぐらいかかるかなあ?」
 こちらの様子など全然気にせず、質問攻めが始まりました。しかしよく喋るなこの運転手。
「3時間ぐらいかな」
「近いんだ〜♪」
「そうそう近い近い」


 南浦大橋の赤いランプが近くに見えるようになり、だんだんこちらの眠気も失せてきてしまいました。恐らく一生日本になんか行くことはないのだろうけれど、この運転手の心に有った日本は私が知っている日本より遥か遠方に有ったものの様です。
 ぼんやりと車窓を流れる景色を眺めながら、…上海の高架路は東京の首都高の様に渋滞することが滅多にないなあ、…そう言えば、日本でも景気がどん底の時は物流も低迷して、経費節減の意味も有ってか高速を走る貨物車両の数も随分減っていたっけ、などと考えていました。しかし実際のところ上海市の事情は東京とはいささか異なります。上海で少し生活をすると直ぐに分かることなのですが、高架路はおろか市内を走る貨物車両の数が実に少ないのです。それもそのはずで大消費都市上海への物流を担う外省(上海市以外の省)の貨物車両は土日を含め毎日夜の8時以降でないと市内に入れない様に規制されているのです。そう言えば飲み会か何かで夜遅くなり、やはりタクシーに乗った時、周囲は流通センターさながら、野菜やら、布地やらを満載したトラックばかり。ナンバーを見ると江蘇省や安徽省、遠くからは黒龍省や吉林省のものまで有りました。それに混ざって自転車の前と後ろの荷台に丸裸にひんむかれた豚肉を6〜8匹分も乗せて隊列を連ね幹線道路を疾駆する自転車部隊のことまで思い出してしまいました。


 南浦大橋をわたる頃いつもの癖で車窓の左側、浦東の陸家嘴の方角に目を遣ります。ついこの間の国慶節の頃までは、これでもかと言わんばかりの度派手なライトアップと4色の探照灯が空を舞うこの辺りの光景は、正に発展する中華人民共和国、東方の真珠、上海市の姿そのものでしたが、ここのところ週末以外はライトアップも探照灯もすっかりナリを潜めてしまい、白濁した夜のしじまに佇む高層建築群は不気味な雰囲気すら醸し出しています。
 橋を渡り終えると間もなく我が家です。しかしその前に最後の関門が…。バス停あたりに密集するバスの壁と人の波を縫うように、これまた行きつ止まりつしながらヨイショ!ヨイショ!と言う感じ、やっとの思いで走り抜けます。


 かくして我が家に到着。
「料金が49元、橋代の15元を足して全部で64元ね」
「100元だからね。おつりは36元かな。ちゃんと領収書もちょうだいよ(ついつい細かくなります)」
「はい、おつり36元と、領収書ね」
「じゃ再見…」
 秋の陽はつるべ落し。晩秋の上海の夕暮れ時は本当に短い。タクシーから這い出しふと見上げた空には、まばらな星が煌いていました。

「停車站(バス停)の風景」(帰宅を急ぐ人の群れ。時間は午後4時半頃。 バスが来ると我先勝ちに乗車口に殺到します。)

「停車站(バス停)の風景」(帰宅を急ぐ人の群れ。時間は午後4時半頃。 バスが来ると我先勝ちに乗車口に殺到します。)

「太陽広場前。仙霞路で客待ちをするタクシー」(上海のタクシーは買手市場。きれいな車を選んで乗りましょう。)

「太陽広場前。仙霞路で客待ちをするタクシー」(上海のタクシーは買手市場。きれいな車を選んで乗りましょう。)