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第72回「夕食は何を食べよう」

  • 1月の執筆者は、チーフアドバイザー(ものづくり)大村卓一です。


    「夕食は何を食べよう」

    ある企業の社長さんとお話ししていたら、還暦の前後で奥さんを亡くされ一人暮らしをされているという。当初、料理をする習慣がなかったのでほぼ3食外食に頼っていたのだが、それまで通りの健康な人生を継続するのに多少の不安を感じ、自炊を始められたそうだ。公私ご多用なのだが数年続けてこられ、今では昼食の弁当まで作っておられる。おかげで健康診断の数値は良好だそうだ。食事に拘っている一流のスポーツ選手も多い。良い成績を残している選手たちだ。

    私も台所に立つことに抵抗感がないので、家内の手伝いをする。きっかけは実験室で上司が職場のみんなに納涼祭で振舞うアイスクリームを作るのを手伝ってその面白さを知ったこと。化学実験(というより化学プロセス)と料理は通じるところが実に多い。調理具洗浄では化学屋が方法と道具の引き出しを揃えている。家で手伝うのはもっぱらこのプロセス。家内に重宝される助手なのだ。家内の手伝いに終始しているのはプロセス技術において優位に立てないからではない。上述の役員さんが主役なのは何を作るのかを自分で決められるところにある。そう、料理をやりますという人は長期的スパンの中で食べるものを決められる人なのだ。

    「夕食は何を食べよう?」という料理の入口をすんなり通過できないと、あれにしようかこれにしようか決めかねて、結局、時間制限で一番手軽なものを選択してしまうという『雑食動物のジレンマ』に陥ってしまうのが落ちだ。コアラにとってはユウカリの葉の外観と香りと味がすればそれは食べる物であり、何の心配もなく食べている。そのことによる健康への影響に頓着していない。しかし人間やネズミは何でもお構いなしに食べているようだが、どれが美味しくて安全なのか、思考回路の大半と膨大な時間を割いて考えなければならない。個々の健康(言い換えると、身体)状態はそれまでに食した物を反映しているはず。安全とは発がん性や生活習慣病などの長期的な評価尺度においても、という解釈である。人間は世代を超えてすぐれた認識力と記憶力を持っているから、雑食性の利点を最大限享受してきた。相応のストレスとも戦ってきている。

    −マイケル・ポーラン著、ラッセル秀子訳、雑食動物のジレンマ、東洋経済新報社出版 を引用−

    我が家の朝食は長年全く変わらないパン食メニューである。食パン、生野菜、煮野菜、スクランブルエッグ、スープ、果物という決まった材料を標準化したプロセスで調理して食卓に上る。私でも30分で準備ができる。切ったり
    洗ったりの下ごしらえもするから一通りの調理法は使うが、朝食は標準化されており、いわばコアラと同じなのだ。私が高校生くらいまでは、少なくとも我が家の3食は今の朝食と同様、選択肢がなかった。両親がこの記事を読んだら怒るかもしれませんが、夕食も1汁1采で時々焼き魚がつくくらいだった。夕食も選択肢がなかった。私たち家族がコアラだった時代であれば私は家族の料理担当になれたはず。

    それから数十年たった今、世界中の食べものや料理法の情報が行き交っている。収入も増えたので欲しいものは何でも食べられる雑食動物になったのだ。
    危険もそれ以上で、難しい病原菌と遭遇する可能性も皆無ではなくなった。
    夕食は変わらず家内の独壇場。私のプロセス技術も向上したはずだが手伝いの域を超えていない。よく診る(精査してみるという意味)と個々のプロセス技術も違うのだ。最終的に食卓に並ぶ料理ごとに、根野菜の皮のむき方、葉
    野菜の切り方、出汁の取り方、魚介類の塩加減、すべての食材の火加減…等々を変えている。それだけではない。色々な情報を仕入れており、ラベルに記述されている内容をきちんと読み取り、自分達が食べるのが正しいかどうかの判断基準を持っている。それらを動員して「夕食はこれにする」と決定し、結果として今日、夫婦とも健康状態にあまり不安がなく、雑食動物の恩恵を享受している。

    ものづくりの世界でも**だけ作って居ればよい時代から、選択肢があふれているグローバル社会において、「何を作るのか」を決める判断基準を持ったものが主役になっているのだろう。

    ものづくりチーフアドバイザー 大村卓一

    ※このコラムは2015年1月7日に配信されたメルマガ「広島校だより Vol.100」に掲載されたコラムです。メルマガ「広島校だより」を配信希望の方は、広島校だよりからお申込みください。